名前:渕 正信(フチ マサノブ)
生年月日:1954年1月14日
出身地:福岡県北九州市
身長:183cm
体重: 105kg
デビュー:1974年4月22日 対 大仁田厚
得意技:フェイスロック
バックドロップ 各種拷問関節技
タイトル:世界ジュニア アジアタッグ
入場テーマ:
デンジャー・ゾーン/『トップガン』

1974年2月、全日本プロレスに入門。
1989年10月20日からの第10代世界ジュニア王者時代には、14連続防衛の長期政権を確立。
ヘビー級のジャンボ鶴田、ジュニアへビー級の渕正信として一時代を築いた。
2004年の5・22後楽園大会では、天龍と組んでアジアタッグ王座を見事に奪取。
最近はスポークスマン、小説家、テレビ解説者としてリング外でもマルチな活躍を見せる全日本の重鎮だ。
 
 
 
 
 
惨い遺体となって・・・
2008.08.07

ゆうさんの話を要約すると私の想像とは違っていた。
本名山下節男でゆうさんよりひと回り年下の男。
桜丸あきらの本名が志堂暁男、ゆうさんだとわかり捜し出して
訪ねて来たということのようだ。



当時すでに40代。咲さんの息子と称しあのセピア色の写真を持っていた。
ゆうさんは信用して面倒みる事にした。手元には20万円の現金を持っていて、
それを使ってくれと差し出したが、むろんゆうさんは受け取らなかった。



どこでどう生活してたのか口をつぐんだままなので敢えて聞かなかったが、
毎日朝夕と2回薬を飲んでるのを知っていた。
独り者のようなので一緒に部屋に住まわせた。



ゆうさんは当時売れっ子作家で忙しくしていて、節男には自由にさせていたようだが、
それじゃ本人が居心地悪かったのか自分で職探しをしたらしい。
だが上原氏が言ったように長続きしなかった。



最初は分からなかったが、そのうちゆうさんはその原因をつかんだ。
山下節男は脳腫瘍に侵され重病でそんなに長く生きられない身である事。
そして病院を抜け出して来た事。



入院中に見た雑誌でゆうさんこと桜丸あきらを知って会いたくなり抜け出した。
母親から聞いてあったのだろう。ゆうさんは何度も病院に行かそうとしたが、
その度に彼は泣いて「もう僕は長く生きられない。やっと会えたんだから
病院には戻りたくない」と言った。



そんな状況ながら2人してよく酒を呑んだらしい。話はいつも昔話。
それもほとんどが咲さんのこと。山下節男は病気のせいですぐ酔ってしまった。
だが一緒に呑むことをせがんだ。



時たま泣いた。ゆうさんは愛しくなって付き合った。
病状は進んだ。仕事で出かけてる時に山下節男は姿を消した。
ゆうさんは捜した。警察や上原氏にも頼んだ。そしてようやく見つかった。



大型トラックに轢かれた惨い遺体となって。顔の判別も分からないほどに。
着ている青いジャケットとあの写真が決め手となった。ゆうさんは断筆した。
儚さを知ったということか?小僧っ子の私が言うべきではないかも。



 
 
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